make the style. オレンジランプのブログ

私、オレンジランプが自由気ままに過ごす日常。大好きなもの作り。料理。家具製作。猫。アウトドア。子育て論。などなど、気ままに発信していきます。

熊本大地震 あの日起こった事。その③

2016年4月16日 本震が起きた日の夜が明けた。これは夢か?!現実なのか?!極度の緊張と恐怖の為に頭は上手く働かないまま。

いつもの様に東の阿蘇外輪山の上に朝日が顔を出す。

 

結局、この日もあの後寝れずに朝を迎えてしまった。

この記事はシリーズものです。

 

orangelamp8.hatenablog.com

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私以外の家族は家の中や車の中で睡眠をとっていた。私は冷たくなったコーヒーをすすりながら一人キャンプ用のチェアに座っていた。バーベキューコンロにくべた薪もすっかり炭となりその炭もわずかに燻るほどになっていた。

 

(いつの間にかこんなに明るくなっている、、、。)私はそう呟きながら温かいコーヒーを飲みたいと思い再び湯を沸かす。すっかり冷えてしまった体を温めるためだ。

あまりにも現実的じゃない状況に寒さもあまり感じなかったが朝日を浴びるうちに体も頭も覚醒していったのだろう。

 

私はその朝日に向かって頭を下げ手を合わせた。

 

『これ以上、被害が出ませんように。悲しみが増えませんように。』そう願った。

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↑その時の阿蘇方面の空です。自衛隊の飛行機と思われる飛行機が何度も飛んでいました。

 

朝日に願いをした後、車の中で寝ている妻と子供の姿を確認します。どうやら、二人と猫2匹仲良く寝てくれているようです。少しだけほっとしたのと温かいコーヒーを飲んで体があったまったのか急に睡魔が私を襲いこの後、しばらく眠ってしまいました。

 

『そんなところでずっと寝てたら風邪ひくよ。』姉のその声で目を覚まし私は車の中に寝ぼけ半分で乗り込みました。私が急に乗り込んできたことで椅子の下に隠れた猫の頭を撫でながらまた眠りました。

 

どれくらい眠っていたのかは分かりませんがキャッキャとはしゃぐ子供達の声で目が覚めました。私は車を降り、その子供たちに挨拶しました。もちろんうちの子もいました。子供は元気があって良いな。こんな時だって無邪気だ。少しうれしくなり家の中に入りました。家の中に入り、テレビのニュース映像を観ると阿蘇大橋崩落と出ていました。

 

『はっ!阿蘇大橋が崩落したの?!』私はあまりの驚きの余り大声を出してしましました。

 

『そうみたいよ。』そこに居たみんなが口をそろえて言いました。阿蘇大橋というのは熊本県の人なら知らない人が居ないって言っていいほどの長さ205mの大きな橋です。国道57号線かを熊本方面から大分方面に向かう途中の右手にありました。

 

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↑ウィキペディアより崩落前の阿蘇大橋

 

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↑その日の地元紙の夕刊記事より

 

その後も、熊本城の櫓などが崩落しているなどと次から次へと悲しいニュースが私の目と耳から入ってきました。熊本城も阿蘇大橋も私たち熊本の人にとっては大きな大きなシンボルです。それが揃いも揃って甚大な被害、崩落してしまったのです。

 

この衝撃で事の重大さに気付き、生きる希望を失った方もいらっしゃるかもしれません。

 

この後も次々に映し出される倒壊した家屋や避難所の映像。同じ熊本とは思えませんでした。本当に本当にどえらい事になったんだ。ここまでしてもまだまだ半分信じられ無い私は中々現実を受け止める事が出来ませんでした。

 

この日の記憶はこの辺からなくなっています。何をしてたか何を考えたか記憶力には自信がある私でも覚えておりません。それだけ、受け入れず辛かったのかもしれません。

 

次の日から子供の学校と私の昼間の仕事は休みになりました。とはいっても朝の新聞配達は本震の日しか休んでないので17日以降は新聞配達に行きました。とにかく必死で。

 

実家がある地域は震源地から離れていることもあり、水道以外のライフラインが止まるという事はありませんでした。しかし、私が住んでいる地域は電気も水道も止まってしまい開通には2週間以上かかりました。

 

朝の新聞配達が終われば自宅に戻り、悲しいほど散乱した家具、食器、その他もろもろの掃除をしました。もちろん余震も続いておりその度に外に逃げ出しました。

泣きながら毎日片付けました。悔しくて悔しくて。家族の思い出の品のコップやお皿子供が学校で作った工作物。私たち家族の10年分の品物が瓦礫と化していたからです。

 

命も助かりました。ケガもありませんでした。でも、大切な何かをなくした気がして、毎日泣きながら片付けました。悔しくて悔しくて。

 

私たち家族の避難生活は震災後、約2週間続きました。

ライフラインは水道以外、確保できていたのですが食料はどこを探してもありませんでした。スーパーマーケット、コンビニ何処に言ってもありませんでした。

 

商品棚も最初に水が無くなり、お茶が無くなり、炭酸飲料までもが無くなりました。

食料も弁当、おにぎりはまずなく。カップラーメン、おもち、そして、スナック菓子などの順番で無くなっていきました。食料も飲料水も仕方ない仕方ないという風な順番で購入されていったんだと思います。

 

本震後3日経った頃には食料は底をつきました。普段はあんなに食料が並んでるスーパーマーケットやコンビニも24時間営業のレストランも 閉店していました。テレビやインターネットで盛んに救援物資が届いたなどの情報はありましたが私が居た町には一切の救援物資は届きませんでした。

 

近所の町役場に足を運び飲み水や食料の情報を得ようと役場の担当者に訊いても

 

『私じゃわかりません。』の一点張りでした。

 

では、誰に聞けばいいのかどこに行けばいいのか訊いても

 

『私じゃわかりません。』の一点張りでした。

 

この担当者という方にも家族があり仕事上ここにいる訳で責任感が無い訳じゃないと思いましたがもしもの場合のマニュアルや危機管理というものにはいささか疑問と不信感を持たずにはいられませんでした。私は怒号が飛び交う役場を後にし、この後、数箇所の学校や役場を廻りました。でも結果はどこも

 

『私じゃわかりません。』の一点張りでした。

 

もう諦めました。誰にも頼れない。国にも県にも市にも町にも。救援や支援が間に合わないのも分かります。でも、悔しかったです。本当に。

学校や役場、社会保健センターなどに行けば救援物資がある。これは間違った考えなんだと気づきました。

 

自分の身や家族の身は結局自分たちで守らないといけないんだそう思いました。

どうすれば良いか考えた結果。私は車で隣の福岡県に走りました。高速道路のインターチェンジに向かう対向車線の車は県外ナンバーばっかり。大阪、福岡、山口、広島、神戸、中には品川、横浜ナンバーの車までありました。

 

救援は間違いなく届いている。日本全国から人も物資も届いている確実に。もう少しの辛抱だ。私は全国から届いた人、その人たちが運転している車の中にある沢山の物資を見て泣きながら運転しました。これが人助けなんだ。苦しんでいる人が居る。仕事や悩み、不安もある中、日本中の人が熊本に来てくれている。ありがたい。ほんとうにありがたい。

 

その後、高速に乗り、太宰府インターチェンジで高速道路を降り、一番近いガソリンスタンドでガソリンを並々と入れて近くの食堂で食事をしました。久しぶりに見た温かい食事。しかし、胃があまり受けつけませんでした。

食堂を出ると、すぐに銀行に寄り、出来るだけのお金をATMで引き出し、スーパーマーケットに向かいました。

 

自動ドアから中に入るとそこには日常がありました。

 

普通に食料品が並んでいたのです。当たり前ですが棚いっぱいに。私はまた涙を流しました。わずか車で1時間走ったこの距離に日常がある。こんなにいっぱいの食料品。買い物を楽しむお客たち、、、。

 

私は次々に流れ出す涙を服の袖で乱暴に拭い去り、急いで買い物をしました。考えられるありとあらゆる品を。車に詰めるだけの物資を詰め込みました。食料品、電池やろうそく等の物資、生理用品、おむつ、トイレットぺーパーにティッシュペーパー、薬品や消毒液、ペットフードなども大量に買いました。

 

私の家族にはおむつ等は必要ありませんでしたが近所や友人宅に届けるためにそれこそ、何度も車とスーパーマーケットを往復して何度も買いました。

 

恐らく定員さんもそこに居たお客さんも驚いたと思います。目は血走って、涙ぐみながらお風呂にも入れず、無精髭ぼうぼうの私の姿を見て。実際に何この人!というような怪訝そうな表情で眉をひそめられたこともありました。でも、そんなことは気にしませんでした。私には早く戻ってこの物資を一刻も早く届けたいという思いがありましたから。

 

この後、私はこの救援物資を確実に届けるために近くの公園の駐車場で1時間ほど仮眠をとり一路熊本を目指しました。家族と友人たちが住む熊本へ。

 

このblogを書いたのはこの熊本地震の本震があった2016年4月16日から丁度、1年が経った2017年4月16日です。前回の前震によりダメージを受けていた大地、建物や橋、道路などに壊滅的な被害が出ました。この被害により多くの人も亡くなりました。

この場を借りてご冥福をお祈り申し上げます。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。感謝いたします。