make the style. オレンジランプのブログ

私、オレンジランプが自由気ままに過ごす日常。大好きなもの作り。料理。家具製作。猫。アウトドア。子育て論。などなど、気ままに発信していきます。

依存関係。

何かに依存する。何かに熱中する。

どちらも似たように一つの物事に取り組むこと。

でも、この二つには大きな違いがあると思う。

何かに依存するそれは人生を大きく左右することになるかもしれない。

私が子供の時と今では時代が違う。それにそろそろ気づく時だと思う。

 

自分が熱中するべきもの。自分が頼るべきもの。

 

※今回のblogのテーマは大変デリケートな問題です。毎回そうですが私が生きてきた人生の中で感じた疑問や葛藤について書いております。ですので文中の表現や内容は誰かを攻撃するものでも傷つけたいと思って書いているものではありません。その点にご留意下さいませ。

 

依存とは・・・

物質への依存(過食症ニコチン依存症アルコール依存症といった薬物依存症)、過程・プロセスへの依存(ギャンブル依存症インターネット依存症借金依存症)、人間関係関係への依存(共依存、恋愛依存症、依存性パーソナリティ障害など)があり、重大な精神疾患にいたるケースもある。

[Wikipediaより抜粋]

 

私は中学校を卒業するまで生活という部分においてその大部分を両親に依存していた。

衣・食・住。当たり前と言えばそうかもしれないがこれさえも親に依存できない状況の方も多くいる。

私は中学校2年生になって朝の新聞配達を始めた。その給料は年間に数日の休みしかなく、毎日4時に起きて1日60件ほど配達して1か月1万8千円ほどの給料だったと思う。

 

正直、割に合わないと思う。でも、この1万8千円と言う給料が私が親からの依存を脱却するとても大きな第一歩になった。

高校の時に父の会社が倒産した。私は昼間は高校。夕方から深夜まではスーパーマーケットでアルバイトをして学費を稼いだ。

 

学生の時までは親に依存する子供って多いと思う。金銭面でもそうだが精神面でも親に対する依存度は大きいと思う。それが一般的だと思うし何らおかしなことは無い。

 

でも、私が海外で仕事をしていた時に違和感を覚えたことがある。

私が会った外国人の大半はその親に対する依存の脱却が比較的に若い年齢の段階から始まっているのだ。

私が海外で会った中学生も私が過ごした中学生の頃よりは遥かに逞しく大人に見えた。

どこか凛としていて清々しいくらいだった。その親から精神的に独立していることに対して意識もしていないだろうし、おごった様子もなかった。

あたり前のように精神的に大人になっている彼らを見て正直、驚いた。

 

私が仕事をしていた場所は正直、経済的に恵まれない場所が多く見受けられる場所も多かった。日本でも似たような場所はある。そこで暮らす人々も逞しかった。依存する関係には生活の環境が大きく関与することに気付かされた日々だった。

 

私と言う人間は生まれながらに恵まれた存在だと思う。両親が居て、姉達も居た。住む家もあり、両親のお陰で経済的にも恵まれていた。姉達がいる中で待望の男の子の末っ子。だが生後1年で白血病になった。

 

親は過保護になり私が何をするにもどこに行くにも心配してきた。そんな状況で幼少期を迎えた私は当然、甘やかされて育ち、性格的には自己中心的、傲慢に育つ。その結果、いじめに合い周りから孤立していく。

 

私の人生においてはじめての大きな挫折だったかもしれない。でも、そのいじめられるという事が自分のどこが他人と違うんだろうという事を考えるきっかけになった。

人は与えられた環境の中で育つ。これは絶対的だと思う。

 

今まで多くの人に会って来て、その会った人の育った環境。育った家庭の経済的環境で人間の人格形成が大きく左右されることが分かった。もちろん自分もその中の一人だ。

 

兄弟が多い家庭で育った子供はそれぞれ性格が違うと思う。

 

例えば、

長子は責任感が強い。でも、実は寂しがり屋。そして、自分の意見をはっきり言えない人が多かった。これは、兄弟の中で一番上という事で育てられる状況の中で強く責任感を求められるためにそうなってしまうんだと思う。

 

お兄ちゃんなんでしょ我慢しなさいとか言われて育つと思うし。そして、自分が甘えたい年の時に次の子供が生まれる。甘えたいときに甘えられない。お兄ちゃんだから我慢しなさいと言われる。これによって長子は自分の言いたいことを親に言えなくなってしまう。私が会って来た人の中で長子と言う人は責任感が強い反面、他人とどう接して良いか分からない人が多かった。

 

その結果、中学校に入った時にグレてしまったり、登校拒否になってしまう人が多かったと思う。これに関係あるかどうかは分からないが未婚の方や離婚経験者も長子が目立ったと思う。

 

次に2番目。

 

2番目の子供ははっきり言って器用な方が多かった。それもその筈で、例えば3兄弟の中なら上にも下にも見本が居るのでバランスを取りやすい。そのバランスと言うのはこういうことをすれば親に怒られる。こういうことをすれば親に褒められるという事を自然に身に着けている人が多かった。バランス感覚が抜群なのだ。

その代わり、自分は自分と言う人も多く譲らない事には絶対に譲らない人も多かった。何を考えているか分からない時も多かったので敵に回したら1番厄介な存在なのかもしれない。

 

最後に末っ子。一人っ子もこのタイプかもしれない。

 

私がこのタイプ。

 

とにかく甘えん坊。自分が面白くない事には邪魔してでもやめさせようとする。とにもかくにも一番末っ子で誰からも可愛い可愛いと言われて育つので自分が中心じゃない時が済まないタイプだと言えるだろう。でも、その反面多い兄弟の中で育つためには強く育たないと生きてけないために長子にも次子にもない特技を持っている人が多かった。勉強がすごく出来たり、スポーツがすごく出来たりと一芸に抜き出た人が多かった気がする。

 

ここまで書いてきたように育った家庭環境によってもその性格は変わっていくと思う。

私が会った外国の人たち。みんな兄弟が多かった。その中の生存競争も激しかっただろうし、自己主張しなければやっていけなかったんだと思う。だから、どの人を見ても自身に満ち溢れて凛としていたのだろう。当時、25歳位だったは私は中学生くらいの男の子のその凛としている佇まいに恥ずかしさを覚えた。

 

日本は恵まれていた。経済的に。環境的に。

 

そう感じた。だから、私が見てきた外国人たちよりも何かに依存するという事が多いのかと思う。

 

親に依存する。経済的に精神的に。

 

でも、その親に依存して育った人たちが今度は大人になって子供をもうけて親となる。

依存の体質というものは、はっきり言って中々消えない。

 

私が生まれ育った時のお爺ちゃん、お婆ちゃんと今のお爺ちゃん、お婆ちゃんははっきり言って違う。おそらく、戦争を経験した大人たちとそうじゃない大人たちでは環境も違うのだからそうなったのだろうと思う。

 

戦時中は食うにも困った。祖父からよく聞かされた。ものにも困った時代だ。

 

その戦争を経験した大人たちは戦争を経験した子供たちに可哀想な思いをさせたくないと思って育てる。時は高度成長期。忙しくて子供に時間は使ってあげられなかったかもしれない。でも、生活3種の神器などが世に登場して日本人の生活環境も生活水準も上がって行く。

 

その時に育った子供たちが私の親の世代。いわゆる団塊の世代って人たちだ。

その可哀想な思いをさせたくないと思って育てられた子供たちに育てられた私の世代。

 

当然、私が見て育った大人たちより精神的に未熟だと思う。

 

誤解しないで欲しいがこれは誰かを攻撃するわけでも非難するわけでもない。

そう感じるのだ。私の周りには本当に何かに依存している人が多い。私もその一人に間違いないが、、、。

 

依存。

 

それをすることで自分の欲求を満たし、その欲求が満たされない時にはその対象に対して攻撃さえも辞さない。そんな人が多い。

 

子供に依存する親。大人になっても親に依存する子供。ペットに依存する人間。

 

 

相手が生き物じゃなく無機質なものならばその依存は他人に対してあまり問題にならないのかもしれない。ギャンブルや薬品やアルコールの依存によって起こされる二次的問題は別として。

 

私の家庭が崩壊しかけたときに一番苦労したのは妻の母の問題だった。

 

妻と妻の母は強い依存関係だった。

 

気づくのが遅すぎた。母子依存関係と言う言葉があるのも知らなかったし、調べようとも思わなかった。でも、私たちの関係を紐解いていくといつも義母の存在があった。

 

はっきり言ってどんなことにも口を出し、どこに行くのにもついてくる。

 

私が結婚指輪を買いに行くときにさえ私が選んだものよりこっちにしなさいと決められ、結婚式も夫婦間では式は上げなくていいという事だったのに勝手に式場を抑え、勝手に話を進めていった。それに対し妻は何も文句も言わなかった。私も言えなかった。

 

妻との結婚も私たちの旅行についてきた義母にこの旅行を最後に結婚する気がないなら別れて頂戴と言われたのがきっかけなのかもしれない。当然、結婚を前提として付き合っていたのだけど。

 

離婚話が出たときも、私の子供は家に置き妻だけ出ていった。私の子供は妻に置いていかれたことがそれまでに何度となくあった。

私が仕事から帰ってくるとまだ、3,4歳の我が子が暗い廊下で泣いていた。『ママが出ていった。』と言いながら。子供が言う事を聞かないと出ていったらしい。

 

私はその度に妻の実家に行き妻の両親に頭を下げて妻を迎えに行った。

 

毎回、私はののしられるばかり。

 

私は常にどんな時でも、相手の話を聞き。そのバランスをとるようにしている。たとえば自分に非がある場合には素直に謝罪する。

 

でも、義母も妻もそういう人間ではなかった。

 

別にここで義母や妻を攻撃しているわけではない。その離婚問題の時もこの関係がある限り、私たち夫婦の関係も家族の関係も崩壊するんだと思った。

 

だから私は心理カウンセラーに連絡を取り全てを話した。

 

夫婦二人で同時にまた、個別にこのカウンセリングに臨んだのだがはっきり言ってこの時の心理士は私の話を聞いちゃいなかった。離婚問題で焦っている旦那が慌てて、依存問題がどうのこうの言ってるわ~くらいの感じだった。

結果、そんなの言われてもあなたたちの関係は壊れてしまっているのだからここじゃなく裁判所に行って調停でもしなさい。

 

これが結論だった。

 

はっきり言って時間の無駄だったが私は妻にこの後、度々、妻と義母の関係性について普通じゃないと訴えかけた結果、妻に変化が芽生え始めた。

 

それまで、義母の操り人形だった妻が私と私たちの子供の事を見てくれるようになった。

 

嬉しかった。自信なさげの妻の表情に生気がみなぎり、力強くなっていくのが傍居て分かった。本当に嬉しかった。

 

私が妻や義母の関係をここまで気にしたのは子供の存在があったからだ。

 

子供がある日私に言った。

 

『婆ちゃんの家に行くと婆ちゃんとママはパパと別れる話ばっかりしている。だから嫌だ。私が嫌な事ばかりするし。』

 

私は愕然とした。自分が知らなかったことを小学校低学年の子供が言ったからだ。

その幼い口から発せられた言葉は私に行動を起こさせるには十分だった。話を聞くと

どうやら、義母は妻にしていることを私の子供にまでしているらしかった。依存関係の構築だった。

 

自分の思い通りに出来る存在の構築だった。

 

私は妻にその事を話し義母と会わせないようにした。もちろん子供が望めば会わせるし、義母の家に行くというのを止めはしなかった。

 

この話の中でもっとびっくりした話が子供の世話をたまにしてもらっているのに対して妻は月々2万円支払っていた。

 

子供を面倒見るのは大変な重労働である。でも、私に何の相談もなく月々2万円支払っていたのである。他にも数え上げたらきりがないが、、、。

 

あれから、一年半。私は病気になったが、

 

私の家庭は笑いが絶えなくなった。はっきり言って経済的にはひっ迫しており、瀕死寸前だ。私の病気もいつ治るか分からない。みんなが寂しい思いをしている。でも、以前と比べてみんながはっきり意見を言うようになった。子供も妻も私も。その分、言い争いや小競り合いは増えたが以前のようなギスギスした関係ではなくなった。

 

誰かに依存する依存されるのでは無く生きていきたい。それが出来れば良いのかもしれないが必ずしもそうはいかない。経済的な独立、精神的な独立。

それに立ちはだかる壁は人それぞれだが、その人の人生においての 最終的にはその依存されていた人は責任とってくれないのかもしれない。

 

私と親がともに強烈な依存関係にあってマインドも行動もコントロールされていたら。

もし、親が先に死んでしまったら私はきっと路頭に迷うことになるだろう。ひょっとしたら後を追ってしまう事になるかもしれない。

 

昔から親離れ、子離れという言葉がある。

 

これは、親にとっても子供にとっても、とても大事な通過儀礼だと言える。

私の子供もいつか私の巣から旅立ち、他の場所に巣をつくることもあるだろう。

 

その時は、笑顔で送りだしたいと思う。多少の夫婦喧嘩で私の巣に戻ってきたら、もうお前の巣はここじゃない!と追い返すかもしれない。

 

依存。

 

それ自体は悪いことじゃないと思う。でも、その結果、精神のバランスが壊れてしまったり、その対象が自分の思い通りにならなくて攻撃的になったり、自傷的になるのであれば一度その関係を解消するのもいいかもしれない。

 

私が経験した中から家庭環境の中からの人格形成や依存関係の話を書きましたが、人間誰しも強くありません。私も今現在、人に頼り、薬に頼って生きています。

それが、他人にどう思われようとかまいません。

 

でも、海外生活の中で会った人たちはひょっとしたら今の私よりもつらい境遇の中で生活をしていたのかもしれません。その中でも目を輝かせ、汗を流していたあの姿は今でも忘れられません。

 

自分が必要とされる。また、必要とする。この関係はとても大事でとてもデリケートです。でも、その先の人生を考えたときにいつか決断をする時が来るかもしれません。

 

自分の人生です。誰も責任はとってくれません。自分がとった行動は自分に帰ってきます。良いことも悪いことも。

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これからも私は色んな事と闘っていきます。もちろん、色んな意見に耳を傾け、尊重し、共に歩めるのならば歩みます。その時に自分の大切な存在が隣にあればこんなに嬉しいことは無いでしょう。

 

 

最後まで読んでいただいてありがとうございました。感謝いたします。