父
『父』とあらためて言うと何か難しくなる。母には素直になれても父には中々、素直になれませんでした。同性だからかな。
ライバルであり目標。
今回は『父』について書きたいと思います。最近は、父の日も話題になりますけれど、母の日と比べると遥かに及びません。私が子供の頃なんて、もっと話題になりませんでした。私も父の日に感謝の意を示したことは数える程しかなかったと思います。
私の父親を一言で言うと、
優しい人です。
凄く優しい人だと思います。自分がどんな状況でも困っている人や悩んでいる人を受け入れて、自分を犠牲にしてまでも困っている人に手を差し伸べるそんな人です。
それが切っ掛けで家族がとんでもない目にあったこともありますし、私もなんてお人好しなんだ。馬鹿じゃないの!って思って、罵ったこともありました。
『それでも親か!』
そう言いながら本気で殴ったこともありました。この時は本当に家族がバラバラで直接父が悪い訳でもないのですが、まだ考え方が未熟で稚拙だった私の怒りの矛先は父に行ってしまいました。
今思うと申し訳ない気持ちでいっぱいです。
その夜は、大好きな父を殴ってしまったという罪悪感と背徳感と自己嫌悪と息子に殴られた父の痛みを思い、布団にくるまって一晩中泣いたのを覚えています。その時の私の拳の痛みなんて数日もすればひきますが、父の痛みはまだ癒えていないかもしれません。
私は幼いころから父の事が大好きです。私の最大の理解者だと思っていますし、今でも大好きです。この父の息子として生まれてきて良かったと思います。
自分が父親になるまでは、父というか男はすべてを語り、しっかりと理解をさせてくれる人だと思っていました。それがこの時の父に激しく怒りを覚えた理由でした。
でも、自分が父となった今は、全てを理解させる理由も必要もないし、そんなの出来るはずもない。色んな悩みを抱え、色んな葛藤と闘いながら弱音を吐きたくても吐くこともなく、生きなければいけないのかなっていう事も強く感じました。
父は背中で語る。
そう言いますが、とてもそれは大変な事だと思っています。
私の父はいわゆる戦争孤児で3歳の頃に両親を戦争と病気で立て続けに喪っています。
そこから親戚をたらい回しにされたあげくに祖父の出身地の長崎県と祖母の出身地の大分県に住んでいたと聞いています。
私が子供の頃は父方の祖父と祖母が居ない事に大変な疑問を抱いていました。母方には居るのに何でだろうって。
幼かったこともあるんですけど当たり前ではないという事が分かりませんでした。
大分県の高校を出た後に、職人の丁稚から始まり、職人になり、親方になって、独立して社長となりました。私の記憶は父が職人から独立するくらいからしかないのですが、すごく信頼されて、すごく真面目な父だったと記憶しています。
その父は、今もその仕事をやっています。
76歳。
今でも現役のバリバリです。60年近く同じ仕事をやっている訳です。もう、言葉が出ません。
父ちゃん凄い。
私を母とともに育て上げてくれて、今は孫の面倒まで見てくれていて本当に感謝したくても感謝し尽くせません。
子供の頃は、仕事が忙しくてなかなか遊んでくれずに寂しい思いもしましたけど、
私がもの作りが大好きになったり、アウトドアが好きになったきっかけは間違いなく、母ではなく父の影響です。
仕事の合間に釣りに連れて行ってくれたり、キャンプに行ったり、壊れたおもちゃを直してくれたり、竹馬やベッドを作ってくれたり。色んな遊びも教えてくれました。
その遊びを私が今は私の子供に伝えています。
今の私に出来ること、残せるものというものがこのブログの最大のテーマですが、
私の考え方や人に対する接し方、発想などの多くは父から受け継いだものだと思っています。
今でも家具を作っている時や料理を作っている時に口を挟まれて苛立つこともありますが(笑)それが同性の親なんだと思います。
母が居なくなった今も、父は私たち家族を見守っていてくれます。子供の頃は大好きで思春期の過程で嫌いだと思ったこともありましたけど、今は子供の頃以上にこの父の傍にいたいと思います。
私の見本であり、人生の師匠でもある父。
私のお見舞いに来てくれて私が見た父と我が子の背中。果物を洗ってくれています。
いつの日にか、今は幼い背中の我が子が、同じ光景を見て微笑ましく思ってくれるようにこれからもっともっと、頑張らないといけないと思っています。
『父さん、いつもありがとう。父さん格好よかよ。俺も父さんの様になりたか。』
あなたの息子より。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。感謝いたします。